環境/デザイン/ディテール
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雑誌「ディテール」(彰国社:1965年1月)に寄せた評論文。イェール大学への留学を経て、SOM(Skidmore Owings & Merrill) への勤務を終えた岡田がまとめた建築デザイン論である。上記の写真は冒頭文で登場する旧ペプシコ本社
初めての出勤の朝、私のアパートからSOMのオフィスへ歩いている時、パークアベニュー沿いのSOMのPepsiを見出した時、はっとして、見えない衝撃を感じて歩みを止めたことを思い出す。その後、毎朝この道を通うたびにこの作用を意識させられた。Pepsiはちょうど、アパート地区からビジネス地区へ移り変わろうとするあたりのパークアベニュー沿いの、石やレンガの街並みに象嵌されたように建てられていて、その明快なプロポーションと単純なディテールは、あたかもニューヨークの(アメリカと言ってもよいかもしれない)空と生活の単純明快さを映しているようなキャラクターをもっていた。
岡田が留学中に触れた建築家として著作の随所にでてくるのが、イェール大学で師事したPaul Rudolph 、SOM勤務中に触れたGoldon Bunshaft 、そして巨匠、Mies Van Der Rohe, Louis Kahn の4名だと思う。とりわけ、SOMで実務を行う中で触れたGoldon Bunshaftは組織における建築家像を学ぶ上で大きな影響を受けた人物であると思う。
この中で冒頭Bunshaftが手掛けたペプシコ本社ビル(現在、本社は移転)について、ニューヨークでの生活環境から連なるデザイン的な理解を肯定的に記している。
(Miesのイリノイ州立大学Crown Hallを取り上げて)・・・Crown Hallのセクションにはヒエラルキーがあった。構造とマリオンとサッシュの断面は、それぞれその機能を表したものであるし、スケールがあった。デザインにもヒエラルキーが求められるようにディテールにもヒエラルキーが必要なのである。
Miesのイリノイ工科大学、クラウンホールまわりには、SOMがその考え方をひきつぎ「模倣」した建物がいくつかある。屋根上に表したスチールプレートの大梁で大空間を支えた構造を取りながら、「緊張感に欠ける」と評している。
建築をつくるときは、「すべてがつながっている」と、岡田から教えられてきた。「幹」から「枝葉」に至るデザインのつながりを、どうやって設計組織で作り出すことができるのか?。Miesの作品とSOMの「模倣品」を分析したうえでの岡田自らへの問いかけだったのだろう。
(Kahn、Rudolphの作品における緊張感はデザインのヒエラルキーから暗示されるものであることを示したうえで)・・・Lever House(※Bunshaftの初期の作品)の意義は認めながらも、SOMのデザインはどうも、このヒエラルキーにのっているとは言い難い。ヒエラルキーの中途からデザインが出発するから、どうしてもネガティブな建築を作り出すことになる。 ・・・まず全体から細部へということが第一。そしてそれらは連続して、緊張と安堵の入り交ざった満足感を与えるものであってほしい。
岡田が設計プロセスの中で使う、「デザインディテール」と呼ぶ概念・図面・作業を包括する言葉がある。とかくデザインのヒエラルキーを見失いがちな所員の作業を戒める言葉として、岡田がつぶさに発していた言葉である。
CAD、BIMと「デザインディテール」をすり合わせてゆくことにいまだに苦心し続けている。コンピューターの画面を拡大し続ければ部品の納まりまでわかってしまうような図面の書き方ではデザインのヒエラルキーはとらえられないと戒められながら、BIMソフトで、デザインとディテールが無自覚に紐づけられている現実がある。岡田がLever Houseにネガティブさを感じた、デザインの質につながる課題が私の日々の作業に突きつけられている。
・・・同じSOMの家具がニューヨークの家具工場で製作される工法ーいとも簡単に突付溶接を随所に用いるーとは全く異なった、細かい部品に分解されて、ビスによって組み立てられる機械工法を用いた生産図面に書き直されているのに、チーフのアートと共に驚嘆の声を上げたものであった。それは、いかにも産業革命を起し、ロールスロイスを生産するイギリスらしい、機械によって一つ一つの部品を丹念に生産し、個々の部品はピカピカに光っていそうな、そのような気構えを伝えるディテールであった。
設計図と生産図には生産過程を踏まえた調整が入る。その点の理解なしにヒエラルキーを持ったデザインとすることはできない。岡田は設計の時、現場監理の時、どちらにおいてもメーカー技術者との対話を欠かすことがなかった。デザインとプロダクションの間に「建築家の意思」を無理なく位置付けるために必要な対話だったと理解している。
マンハッタンのスカイラインをつくるカーテンウォールは、ガラスとメタルの生産と、大量生産の機構と、膨大な建設量を背景として、マンハッタンの澄明な空位と微粒の硬い煤とからなった空の下に存在するものなのである。デザインが環境を映すものなら、ディテールは生産機構を映すものである。 ・・・再びRudolphとKahnに話を戻そう。彼らの使う材料は非常に似ているし、また、その種類は少ない。ディテールについても同様に、種類は少なく、単純に考えられている。そこには非常にシンプルなデザインの精神があるわけで、この精神は、日本建築の書院などに通じるものであると思う。見え隠れのディテールは粋を凝らしたものであっても、ごくわずかの種類の材料と単純なプロフィル ーやはり粋をこらしたものであるけれどもー によって醸し出されたスペースには共通した精神がある。しかし精神が同じでも、表現されるものは全く異なっている。彼らの持っているものは壁の表現であるし、書院の持っているものは柱・梁の表現である。
岡田は最高裁判所の重厚な作風のイメージをもたれることが多いが、実は多様な作風をもつ建築家である。「精神」と「表現されるもの」は異なるという建築への理解があればこその結果だと思われる。
最後の一節で、「現代の建築材料を用い、日本の生産機構にあった表現はどんなものであろうか」を問うてこの評論文は終わる。この一節は今日的な課題として問い続けてゆきたい。